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東へ西へ・旅行の記録

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(5)クトナーホラ

 プラハから東に70kmほどのクトナー・ホラへ向かいます。

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 ボヘミアの田園。

 クトナーホラ(ドイツ語でクッテンベルグ)は10世紀からの銀鉱山です。12世紀にシトー派の修道院が置かれるとともに領地とし、13世紀にはプラハに匹敵する都市となり、14世紀初めには造幣局が置かれて銀貨を鋳造したとのこと。
 15世紀初めのフス戦争で、鉱山はドイツ人が多かったためにカトリック側の拠点とされ、逆にフス派によって陥落し、ボヘミア人の支配となる。
 15世紀の後半から銀鉱が枯渇しだし、14から16世紀のペスト、17世紀の30年戦争で廃墟となる。

 目的は聖バルバラ教会なのですが、時間に余裕が出たので有名な墓地教会(骸骨教会)に立ち寄ることとなる。
 
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 墓地教会は正式にはクトナーホラのセドレツ墓地にある、全聖人協会地下の納骨堂のことである。
 15世紀初め、墓地の中に教会を建てるために埋葬遺骸を掘り起こし、地下納骨堂に入れたことから始まった。
 半盲のシトー派修道士から始まった作業は以来4万人の人骨を蓄え、そのうち1万人の人骨を地下納骨堂の内装としている。
 ペストの死者、フス戦争の死者が多いとされている。

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 内装はすべて人骨。

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 蓄えられた人骨。

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 地下納骨堂の入り口もすべてが人骨。

 ...土葬された墓を暴いて、遺骸の腐肉を削り、磨いて石灰につけて白骨とする。
 鬼気迫るものがありますが、それを4万人分蓄える。それで納骨堂内部を装飾する。
 私には尋常なこととは思えません。
 これは猟奇というか、ヨーロッパの狂気を垣間みた気分です。
 また、フス戦争の死者といっても当然フス派の死者は異端ですから最初から墓地にはないのでしょうが、フス派の死者はどこで弔われたのでしょう。恐るべきヨーロッパでもあります。

 聖バルバラ教会に向かいます。
  
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 遠くから見ると尖塔にそりが入って東洋的な美しい教会です。

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 正面です。

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 内部です。

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 柱廊の美しさは、バルセロナにあるガウディのサグラダ・ファミリア教会の柱廊を思い出します。

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 銀鉱山の職人。

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 銀鉱山の作業。

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 あらら、とびっくり。帰り道で戸口から出てきた婦人たち。明らかに「なまはげ」。

 クランプスとかというらしいですが、チェコあたりからドイツ、スイス、北イタリアあたりまで、この「なまはげ」の習慣があるようです。
 使い方は日本のなまはげとほとんど同じで、祭りの日に子どもを脅して躾けるといった名目になっています。
 私が子どもだったら嫌ですね。
 そんな地方に生まれなくて良かった。

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 これは大昔の屋敷なのですが、手前に張り出しているのはなんとトイレです。
 屋内からこのトイレに入って、路上に落下させていたわけです。いやはや恐るべき。
 もちろん、今は塞がれています。

 話は少し変わるのですが、チェコという国は特徴があり、国勢調査では国民の半分近くが「無宗教」なのです。近隣国とも旧共産圏諸国とも異なる大きな特徴ですが、もう一つは1992年にチェコとスロバキアが旧共産党指導部同士で示し合わせた「円満分離」です。

 私はフスの存在が大きい影響ではないかと考えるので、少し紹介します。

 ヤン・フス(1369〜1415)はボヘミアに生まれた聖職者でカレル大学の学長だったが、後世のルター、カルヴァンとほぼ同様に教会を批判し、ボヘミア語で説教するなどの改革に取り組んだが、破門され公会議で火刑に処せられました。 ヤン・フスを支持した下級貴族、農民(当時ですから農奴)は武装蜂起しました。

 フス派は農奴の農民を主力とする点で百姓一揆ともいえ、また後にいう「国民軍」とも言えます。
 その勇敢さとともにまた、火縄銃の原型となるマスケット銃を発明し、装備したことで、各国の騎士と傭兵を相手に戦い勝利を重ねました。
 クトナーホラの勝利もその重要な一部でした。

 スラブ人としての波及拡大もあり、1431年の対フス十字軍に対してはポーランドから6,000のフス派義勇兵が参戦し、1433年ポーランドとドイツ騎士団の戦争ではボヘミアから7,000の義勇兵が参戦したとされている。
 フス派による戦いは欧州各国連合の総力で1439年に壊滅し、掃討される。

 だが、ボヘミア人の下級貴族と農奴農民への影響は残り、プロテスタント的に黙認されていた。1620年にハプスブルグ家との戦争でボヘミア貴族は一掃され、一部はポーランドに逃れた。チェコは完全にドイツ支配となる。
 18世紀ポーランド分割後はさらに新大陸へ移住した。

 火刑に処せられたヤン・フスは最後に「真実は勝つ」といったと言われており、チェコではこの言葉が長い外国支配と抑圧の中で国民の拠り所となってきた。
 
 スロバキアはこの当時はキリスト教の強国マジャルの支配影響が強く、チェコのフス派に同調する勢力はなかったためチェコからは敵側となっていた。
 歴史は飛んでナチス・ドイツが膨張するとチェコはナチスに占領されるが、スロバキアはナチスの同盟国としてポーランド占領に参加する形になってしまった。

 チェコスロバキアの連邦制分離は複雑な歴史の結果といえましょう。
 また、チェコ人の無宗教は、カトリックも既存のプロテスタントも、最初の先駆者であったヤン・フスを認めない限りは同じだとする民族感情が底流にあるのではないでしょうか。

 プラハに戻ります。

 夕食はビア・レストラン。
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 軽いシチューの感じ。ビールがおいしい。

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 チキン。

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 ピザとクレープの中間の用な感じ、結構ボリュームがありますが、デザートですからやはりお菓子です。

 ホテルは連泊です。
 三日目が終わりました。明日は4日目。スロバキアのブラチスラバ、そして中央ヨーロッパの中心、ブダペストです。
 10時ころ就寝。
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